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                  《バルーナ探検記録》A                    『インドネシアの海を探る』より

《バルーナ探検隊記録》

  ひょうたんから駒

 それは、1963年の夏のことである。ところは太平洋に面した熊野灘、---。コバルト色にどこまでも澄み切った三重県熊野市二木島湾の海で、私たちは潜水調査を行っていた。 これは、日本で初めての《海中公園》の調査であったせいか、夢のようなニュースとして、当時全国に拡がっていったことを、今も記憶している。 それから18年、今日(1982年当時)では全国に57ヶ所も海中公園が設定され、世界における海中公園の体系もまとまりつつあるのが現状である。 18年前(1964年頃)には、夢のような構想だとされていたものが、既に世に利用されるようになっていることは、大きな喜びではあるが、それと同時に、これが私自身にとって、世界中の海に関する資料収集に乗り出すきっかけになったことも、忘れることのできない思い出である。

 当時は海といえば、すぐに魚や漁業などを連想する以外に、たいした関心もなく、その上、海中の世界は冷たくて暗い恐ろしい所だと決めつけて、一般の人々は見向きもしなかったことは確かである。 まして、海中には美しい景観がり、われわれがそれを利用するなんてことは、想像すらされなかった。

 1週間におよぶ調査が明日で終るという日の夕方、私たちは海を見下ろす宿舎のテラスで、潮のないだ海を眺めながら、とりとめのないおしゃべりをしていた。連日の海中散歩で、すっかり海中の世界にとりつかれた一行の話題は、当然海に関する熱っぽいものばかりであった。

 中日新聞の水谷氏が突然言った。

 「こんな美しい海より、もっと美しい海はあるのかなあ!いったい、世界中で一番美しい海というのはどこでしょうね?」

 彼はこの調査を取材するために、参加したスタッフの一人であった。 私は正直の所、返事をためらった。

それは、直接見たことがないという理由もあったが、何よりも個人の秘密として、心の中にしまっておきたい気持ちが強かったからだ。

 しかし、相手は聞き出すのが商売の新聞社。私は発表する義務をもつ調査の責任者。 なにか答えなければならない。

 「そうですね? アンボン?」

 「エッ! アンボン?」

 「ええ、インドネシアのアンボンです」

 私は数年前に、有名な生物地理学の創始者で、チャールズ=ダーウィンの進化論の協力者でもあるイギリスのウォーレスの『The Malay Archipelago』(古川晴男訳『極楽鳥の島々』河出書房)を読んだことがある。これは、1854年から8年間にわたり、マレー半島とインドネシア全域の生物を、つぶさに調査した結果を、友人であるダーウィンに捧げるために著したものである。

 ウォーレスは、この調査によって、ジャワ島の東にあるロンボック海峡からボルネオ島とセレベス島の間にあるマカッサル海峡を経て、フィリピンのミンダナオ島とインドネシア領のサンギヘ島の間を通る線を想定し、この線を境にして、東部は《オーストラリア区》に、西部は《インドマレー区》に属することを1860年に発表した。 これは、その後1868年にイギリスの生物学者ハックスレーによって、《ウォーレス線》と名付けられた。

 『極楽鳥の島々』でウォーレスは一節に「・・・・・アンボンの海に勝る美しい海は、世界中に無い」と記す。

 ウォーレスほどの学者が、このように確信をもって言うからには、よもや間違いはあるまい。

 “よしッ、いつの日か必ずこの目で確かめてやろう”

 私はこのとき以来、そう心に決めていたのである。

 この私の秘密というか、夢を、太平洋に面した海辺でもらしたのは、なにかの因縁だったに違いない。 このことが間もなく、現実となって現れるとは、当時予想だにしなかったが・・・・

                                                         以下、略

  

  2年が13日

 私のインドネシアの初印象は、極めて悪かった。クマヨラン空港に到着した時刻はかなり遅く、あたりは陰鬱な空気につつまれていた。 鬼のように恐ろしい税関のことも、たっぷりと聞かされていたせいかもしれない。 それほど客は多くないのに、荷物の検査はなかなかはかどらない。 私のすぐ前にいた日本人は、トランクにぎっしりと詰めてあった贈答用のライターを全部没収されてしまった。 きっとどこかの商社マンに違いない。 さあ、私の番だ。簡単な衣類の他には何も持っていないから、荷物の方はあっさりとパスしたが、こんどは妙なボックスに閉じ込められ、ワイロを要求された。あいにく、彼らが欲しがるライターも時計も万年筆も余分は持っていなかったので、次に来るとき持ってくることを約束して、無事に入国することができた。

 大勢の黒い顔の中に、一目でそれとわかる日本人のニコニコ顔が並んでいた。 いよいよ今日からは、大成建設の一員として、いっしょに生活することになったが、それも最高クラスの待遇とあって恐縮した。 初めての異国の空で、なんの関係もない私に、このような特別待遇を与えてくださった遠藤副社長に対し、感謝の気持ちでいっぱいだった。

 それからは毎日、どこへ出かけるにも秋山健課長は付きっきりで、私の世話をしてくださった。・・・

 

 

 いっぽう、知事から紹介されていたデヴィ夫人にも会うことになった。 たまたま大成建設の手によって、《ヤソオ御殿》は改装中であったので、なんの手続きもなく、お目にかかることができた。 時には広大な屋敷の中を、一部屋ずつ丹念に案内してくださったり、大統領についての意見も述べられたが、私との付き合いは、特に宝石や熱帯魚の飼育に関することが多かった。 時には、おしのびでお供をして、町の宝石店で宝石選びをすることもあった。 もちろん、かんじんの調査計画についてもお願いしたことは言うまでもない。

夜にでも直接、大統領に頼んでおくからと、デヴィ夫人から快い返事を貰ってひと安心した。

 

 第二次大戦当時から、引き続きこの国にとどまって働いている、インドネシア通の中島正周氏によれば、インドネシアでなにか仕事を始めようとすれば、交渉だけで最低二年間はかかると言う。 そのうえ、私たちの計画によく似たインドネシアの秘境、西イリアンの登山と学術調査を実施して、ジャカルタへ帰ってきた、加藤泰安隊長と安江安宣副隊長からも、《予想以上の困難さ》を忠告され、はるばるジャカルタまでやって来たというのに、まったくお先真っ暗の情報ばかりで、これは諦めざるを得ないと感じ始めていた。・・・・

 

 3月4日も暮れようとしていた頃だった。 大成の宿舎に帰り、一息ついている所へ、水産研究所のスジョノ君があたふたとやってきた。 大急ぎでタンス所長の家へ来て欲しいという。 なんと明日、大統領が私と会見する予定だとしらされた。 そのために農林大臣から、私がどんなことを話すのか、事前に把握しておくように、依頼があったのだ。私は一瞬、自分の耳を疑った。

 まだ、ジャカルタに到着してから、13日しかたっていないではないか! こんなに早く大統領に会見できるなんて・・・・・・ “信じられない”

  

 

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